邪神と守護神。
神様、というと、どんなイメージが浮かぶだろうか。
とりあえずは、
福をもたらすいいイメージを浮かべると思う。
だけど、この世に神など存在しないと思わされる事も
多々ある。
才能溢れる人が早死してみたり、
憎まれっ子ほど長生きしてみたり、
生まれながらに幸せな人もいれば、
生まれながらに不幸なひともいて、
その不公平や不条理は、
神様がいい加減に、数字の書いた六角えんぴつでも転がして
決めているようにしか思えない。
神様というのは、福をもたらすものばかりではない。
貧乏神、疫病神、死神・・・と、
負をもたらす神様もいる。
光があれば陰ができるし、いいこともあれば悪い事もある。
対極にあるものは常に表裏一体なのだ。
人生の選択は自分自身が決める事。
自己責任、という言葉がある。
だけど時として、様々な扉が閉ざされて、
そこしか進む道がない、といった状況に陥る事がある。
今まで見聞きしてきた女の子達は、
自分も含めいずれも不幸な生い立ちの子が多かった。
傍から見れば、そんなの本人がだらしないからだ、とか
しっかりしてないから、などと一蹴されてしまいがちだけど、
しっかりしようにも、何をもってして幸せというのか、
自分の中に基準となるものがないから、
その足がかりがないのだ。
だから、普通の人から見れば異常としか思えないような話を
いとも簡単に信じ込み、いいように操られていた。
得体の知れない寂しさを埋めるのに、
愛欲、物欲、そして金欲にまみれるしか手段を知らない人達。
操られる人間がいると言う事は、
操ってる人間がいるから存在する。
そしてその操ってる人間もまた、何かに操られている。
普通、人を搾取しようなんて思わないだろう。
貧乏神や疫病神などの存在も含め、
ありとあらゆる『負』の、
それらの全てを牛耳る存在を、なんと表現しよう。
月並みだけど、ここでは便宜上「邪神」としておこう。
文字通り、邪まな神。
魅入られてしまったら、抜け出すことは容易ではない。
邪神、とは対極に、守護霊という言葉がある。
人の肩越しに戦国時代の武士がついてるとか、
江戸時代の商人がついてるとか、
何もそんな、うしろの百太郎的な想像をしなくていい。
また「普通」を例にあげてしまうが、
お父さんがいて、お母さんがいて、兄弟や祖父祖母がいて…
がごく一般の家庭スタイルだとする。
赤ちゃんの頃は抱っこされることで、
物心ついてからは、日々褒められたり怒られたりしながら、
人は“暖かさ”を身につけ、学習する。
いちいち確認作業をしなくても、
無意識のうちに自分は愛されているんだ、
守られているんだといった認識が、人を安心させ、強くする。
極端な話、「悪い事しようよ」と持ちかけられても、
もちろん自分がイヤだと思うから断るんだろうけど、
どこかで「家族が悲しむから」「家族に迷惑かけたくないから」
という思いが働いてるはずだ。
その思いこそが、その人自身の「守護」となっているのだ。
もし人間をパソコンに例えたなら、
いわゆるウイルスバスターや、ファイヤーウォールに値する。
そういう人たちは、自分の中での核となるもの、
スタンダードとなる価値観、前述にもある「よりどころ」が
意識せずともしっかり出来上がっていく為、
ブレることがない。
よって魅入られる事も少ないのだ。
しかし、散々な目に合って育った人でも大成したり、
梨華のように、ごく普通に育った子が堕ちる事だってある。
母親の兄弟の「ろくでなし」は今ものうのうと生きてるし、
一見幸せそのものの家庭に、
実は問題があって事件現場になってしまったりと
このご時勢、何が起きても不思議じゃないけど、
もはや「魅入られる」事に、条件など存在しないのではないか、
やはり神様がいい加減に転がした六角えんぴつが、
誰の頭上で止まっても不思議じゃないように感じざるを得ない。
で、私だ。
ここからは、まぁ話半分に聞いてもらえればと思う。
私が母子共に万事休すと思われた状態から息を吹き返し、
退院後、様子を見に来た近所の婆様は
「この子は絶対に守ってやれ」としきりに繰り返していたそうだ。
何が“見えて”いたのか、
それとも年の功なのかはわからないが、
「この子は生まれてくるというだけで、膨大な力を使ってしまった」
「この子は“弱い”、苦労が絶えない」
だから守ってやれと、やたらに繰り返していたそうだ。
だけど両親はそんな話をおいそれと気に留める事なく、
その後の人生は書き綴った通りだ。
考えてみれば、何かが“弱い”と、
梨華にも同じ事を言われたっけ。
母親が死んだショックは、
自分が感じた以上に、遥かに大きいものだったようだ。
無意識のうちに拠り所を失った、
まるで体の中心を持っていかれてしまったような、
価値観の「核」となるような何かを奪われてしまったような、
あの不思議な感覚は、今でも忘れられない。
私は、パソコンでいうところのファイヤーウォールが
全く機能していない状態となり、
「この子なら自分の思い通りになるだろう」
といった思惑と共に、
自分の保身のために私を利用しようとする、
あらゆる負の存在がひっきりなしにやってくるようになった。
理由は簡単。侵入しやすい、ただそれだけだ。
類は友を呼ぶという。
まるでそんな輩と、わざと波長が合うように
チューニングされているかのようだった。
本来ならば、後天的にできた“家族”が
新たなファイヤーウォールとなるべきだったのだろうだけど、
それさえも結局のところ、悪気があるないにかかわらず
自分の保身しか考えていないといった負の思惑に
染まってしまっていたのが致命的だった。
とにかくタチが悪い。
どれも一見、私の事を思ってると錯覚させられるからだ。
こいつは優しいから、ちょっといい気分にさせておけば
いい様に操れるだろうと、足元を見られているのだ。
私の事を思ってる。
その錯覚は傍から見ても同じだったようで、
「思ってもらえてるんだから、我儘言うなよ」
と、まるで私が悪いような空気になる。
私は自分を責め続けた。
どこをとっても負につながる、実に巧妙なスパイラルだった。
もともと弱いのに、さらに消耗しつづける気力。
ギリギリの所で、ちょっといい事を与えられて、
そんな事を繰り返していたら、いつのまにか
邪神に魅入られてしまったのだ。
でもどんなに魅入られようと、私はわずかな正気を失わずにいた。
いろんな事があったけど、
母親は必死に私を守ろうとしてくれていた。
心のどこかで、それをわかっていた。
その暖かな記憶が、わずかでも正気を保たせてくれていた。
それが、結果的に勝算につながった。
本当に大変だった。
邪神とは邪心とも書く。
歪められてしまった考え方に、引きずり戻されないよう
自分との戦いでもある。
全ての「負」や「悪縁」を断ち切る。
それに伴い、大事な思い出も、失いたくないものまでも、
断ち切れなければならなかった。
文字にするのは簡単だけど、断ち切るということは
「失う」ということだ。
幸せになることを、あきらめたくない。
その思いに、多くの人が動いてくれた。
邪神も負けてはいなかった。
隙あらばと送り込まれる負の存在に、
またしても絶望しそうになるも
いろいろな人の力添えに、もはや勝ち目などなかった。
拠り所を求めることも、
愛し愛されることを願うのも、人間の本能だ。
そして、癒される場所を嗅ぎ分けるのも、また本能だ。
長い間、明かない夜の世界にいた。
もちろん、よく晴れた日に買い物に行ったり出かけたりしている。
でも心の中に、常に何かを気にしていて、
太陽のまぶしさや、空の青さが、
見えるけど見えなかった、のだ。
ふと思った。
そうだ、海だ。
海が、見たいな。
海と太陽。
この二つの力を、借りよう。
私の願いはただひとつ。
元の道に戻りたい。元の自分に戻りたい。
もと来た道に、戻りたい。
私は必死だった。
願いは、通じる。夢は、叶う。
見るもの全てに色がつき始め、
柔らかな光と、心地よい風が吹き始めた。
海と太陽。
その存在自体が神ともいえる、
人間に有無を言わせないエネルギー、大自然の象徴。
私がすがるのは、死神なんかじゃない。




